無用の用

無用の用

2014-07-27 18:34:33 


埴を埏ねて以って器を為る。

(粘土をこねて 器をつくる)


其の無に当たりて、器の用有り。

(そこに無ができるから、器として役に立つ。水や食料を入れることができる)


戸牖を鑿ちて以って室を為る。

(戸口や窓を穿ち 部屋をつくる)

その無に当たりて、室の用有り。

(その中が無だから、部屋として利用できる。)


故に有の以って利を為すは、無の以って用を為せばなり。

(だから、「有」が意味を持つのは、「無」が用をなしているからなのだ)


老子『無用の用』から一部抜粋

訳は如月。だいたい雰囲気で訳しているため、そのまま引用されないように。



形あるものは、形なきものに支えられ

形あるものと形なきものは、表裏一体となってその姿を現している


あなたは

その肉体という器に、清らかな水を注ぎたくはないか

あなたという部屋を

閉め切ったままで 扇風機をまわして満足なのか

エアーコンディショナーなら もっと快適だろうが

本当に それでいいのか

せっかく穿った窓に、本物の風を迎え入れたくはないか

今日も私は、私に尋ねる



国家の視点と個人の視点と(伯父のノートから)

母の弟は、笑福亭仁鶴さんにちょい似の、優しくてユーモアのある伯父でした。

民謡と短歌が好きで、アマチュアながら、そこそこの活動をしていました。

伯父の楽しい話に、子どもの頃の私はよく笑いころげ、

伯父がウチに遊びに来たり、私が伯父の家に泊まりにいくのが、いつも楽しみでした。


三年前の夏、その伯父が体調を崩して入院(胆石の手術)をしたと聞いて、姉と二人でお見舞いにいきました。

その日、病院のベッドの上で私は初めて、それまで知らなかった伯父の一面を見ることになったのです。

伯父はいつものように優しく穏やかな笑顔で、枕元に置いていた一冊のノートを私に手渡しました。

それは、伯父の短歌を綴ったノートでした。伯父の短歌好きは知っていましたが、私が驚いたのは、戦争(太平洋戦争)の時の事をたくさん書いていた事でした。

そしてもっと驚いたのは、そこに「野火(仮名)」という土地の名が何度も記されていた事です。

「おっちゃん、野火(仮名)知ってるの?」そう尋ねた私に伯父は

「如月ちゃんこそ野火(仮名)知ってるんか?」と驚いた様子で言いました。

私は若い頃に、ほんの一時期ですが野火に住んでいた事があります。前が海、すぐ後ろに山が迫っていて、なんだか窮屈な感じがする小さな町でした。あんなに目の前に海が広がっているのに、その海を見ていると胸が締め付けられるような気持ちになったものでした。


「そうか、如月ちゃんも野火におった事があったんか…。」

伯父は遠い目をして語り始めました。


海が好きで、船が好きだった伯父は、自ら志願して、十代後半で海兵になったそうです。もう太平洋戦争も終わり近い頃になります。

最初は広島の呉に行き訓練をして、関東の野火へと送られました。

野火では毎日、爆弾を抱えて敵の船まで泳ぎ、自分もろとも爆破するという特攻の訓練をしたと言います。

そこへ、広島に原爆が落とされたという知らせが入り、あのまま呉にいたら原爆にあっていたと、同じ呉から来た戦友と話しました。

が、その戦友も、ほんの数日後には、爆弾を抱えて敵の船まで泳ぎ、海のもくずとなりました。

訓練ではなく本物の特攻が始まったのです。

明日は自分の番…、そう告げられた日の事を伯父は忘れられないそうです。

ひと足先に散った戦友を思い明日の我が身を思い…。

ところが、突然上官に呼び出され、

「仁鶴(仮名)君、君は関西の出身だったね。すぐに和歌山の由良港へ行ってくれ。」

「えっ?!」

上官はそれ以上何も言わず、理由も分からないまま伯父は野火を早々に去りました。

和歌山の由良港に着いた時が、終戦の日だったと言います。

上官は、おそらく知っていたのでしょう。まもなく日本が敗戦することを。その日が間近であることを。

だから、特攻の予定を変更して、

何も言わず、伯父を故郷に近い由良港へと帰したのだろうと

伯父は力なく言いました。

その上官の判断だったのか、もっと上層部の判断だったのかはわからないままですが。

伯父が戦時中の話を私にしたのは、この時が最初で最後でした。いつもの、笑顔が絶えない伯父からは想像もつかない若き伯父の姿…。


私と伯父は、自分たちの知らないところで野火を共有していました。

時間を越えて、同じ野火の海を眺めていたのです。

野火という共通点がなければ、伯父は私に戦争の話をしなかったかも知れません。

伯父のノートに綴られた、戦友に贈った短歌・・・野火の海を詠った短歌・・・。

もちろん、そのノートには戦争の事ばかりでなく、伯父の人生が、伯父の視線を通してあふれるように綴られていて、伯父がふくよかな人生を歩んできた事が私にも伝わりました。

そんな、たった一つのかけがえのない

「自分」という歴史を持った個人が見た「戦争」というものを

私は、伯父のノートから垣間見た気がしました。


今も地球のどこかで、戦争や紛争があり、

いとも軽々と多くの個体の命を奪っていく・・・

その軽々しさは、事態の重々しさを、かえって浮き彫りにして。


国家の視点からではなく、当事者としての個人の視点からそれらを見た時にどう映るのか…、

個人の眼差しからは世界はどう映って見えるのか…。

そんなことをつらつらと・・・

やり場のない気持ちを引きずりながら・・・。


平和ボケと言われようが、正義の旗の元に他人を攻撃するより余程マシ。

無意識下ではすべてが確かに繋がっているとしても、『私は私』、それを忘れたくありません。

社会的な無意識にも、個人の無意識にも「支配ー被支配」の構図がしっかりと根付いていて

それを打ち砕いていくには、やはり個人の側、下位からの力と方向が必須なのだと思います。

暴力に対して暴力に集うのではなく、感動と歓びの涙に集いたい。

そう思います。

2014/8/6


今日届いたCD

昨日、姉から電話があり

「CDを送ったから、明日には届くよ。」と言う。

で、今朝そのCDが届いた。

 

姉の話によると

母の命日に、家の整理をしていると

偶然古いカセットテープを見つけたとのこと

聞いてみると、伯父(母の弟)が、母の死を悼んで録音した

追悼の言葉と歌が入ったテープだった。

 

たまたま、そのテープを見つけたのが母の命日でもあり、

姉は、その偶然の一致に、母と伯父の思いに触れた気がしたそうだ。

 

伯父というのは、上記の『国家の視点と個人の視点と(伯父のノートから)』に登場した伯父のことである。

 

その伯父も、2012年に他界している。

 

テープ起こしとまではいかないにしても

私自身の記録として、ここにその録音のあらましを記しておきたい。

 

以下、伯父の録音テープから(姉がCDに焼いたもの)

 

母と伯父は、小さい頃から非常に(他の兄弟姉妹以上に特別に)仲が良かったこと。

どちらも歌(中でも民謡)が好きだったこと。

民謡を習いに母の元に通ったこと。

母はどんな時も弟たちを褒めてくれ、伯父たちは、母の自慢の弟であったこと。

~中略~

母の死の前日は、ラジオの民謡の番組の収録があり、

翌日、母の危篤の知らせが入ったときは

民謡大会の最中であったこと。

(伯父は、アマチュアながら民謡の歌い手として活動していた)

駆けつけようかと思ったけれど、

ちょうど、母が好きだった『新相馬節』を歌う予定だったこともあり、

主催者の友人に

「お姉さんの好きだった歌をこの舞台で歌ってあげてはどうか」

と言われ、曲順を変更してもらって

母が好きだった『新相馬節』をそこで歌ったこと。

歌い終わって3時間後に母が息を引き取ったこと。

危篤の知らせで、すぐに駆けつけなかったことが、ずっと、心残りであったこと。

 

母の死の前日に歌ったラジオ番組のオンエアが、

たまたま、母の満中陰(四十九日)の日であったこと。

 

 

満中陰の日に

旅立つ母に贈った歌

 

~黄泉路ゆく 花に埋もる 姉の顔 花よりもなほ 美しく映ゆ

                花よりも なほ 美しく 映ゆ~

 

そして、ラジオで流れた伯父の歌(この曲のタイトルが今、私にはわからない)と、

民謡大会で歌った『新相馬節』の2曲が

その後に録音されていた。

 

以上が、姉から送られてきた伯父のCDの内容。

 

伯父は、危篤の知らせにも関わらず、舞台で歌を歌い続けたことを

少なからず後悔していたようだったが

前日のラジオ番組が、ちょうど母の満中陰にオンエアされたことが

私には、

「それでええねんで。私の好きな歌を歌ってくれてありがとう」という

母が伯父に当てたメッセージだったようにも思われる。

いまわの際に、姉(私の母)を想って歌った伯父の心は

誰よりも正確に、母に届いていただろう。

 

つい先日、伯父のことを思い出してブログに書いたこともあり

私にとっても、CDデッキから聞こえてくる伯父の声に

なにやら感慨深いものを感じつつ・・・

とりあえず、ブログに書きとめておく。

 

ついでながら、youtubeに、伯父の作詞した曲が上がっていたので

(歌っているのは伯父ではないが)

貼っておく。

(まさか、伯父が『宮子姫音頭』の作詞をしていたとは知らなかった)

 

宮子姫音頭/原貴子

 

 

作詞・柴本清二 作曲・古久保恭一 唄・原貴子 踊り振付・若柳吉正夫 

 

ハァ~ 紀州日高の海辺にむかし くりくりぼうずの子が生まれ 

観音様の縁ありて 髪長姫になったとサ 

ハァ~ 紀州日高の山河は青く 都につばめが髪運び 

みかどの妃に迎えられ 宮子姫になったとサ 

ハァ~ 紀州日高の空澄む里に ひとつの夢の宮子姫 

やがて勅意もあいなりて 彼の道成寺出来たとサ 

ハァ~ 紀州日高の御坊の里は 髪長姫の語りぐさ 

昔も今も変わりなく 文化に栄えて明けるとサ

 

もう一つ、『新相馬節』も貼っておく。

(福島の民謡だったのですね。

道成寺が、安珍清姫で福島と紀州をつないだように

道成寺の宮子姫と新相馬節を、今ここでつないで

紀州と福島の、ささやかだけど、新たなつながりにしたいと思います)

 

新相馬節

祖母と猫

私が生まれるより以前のこと

一匹のトラ猫が祖母を訪ねて(迷い込んで)きたと言う。

 

祖母とその猫は、よほど気が合ったらしく

「死ぬまで飼ってあげるな」と、その場で祖母は誓ったそうだ(笑)。

 

猫の名前を、私は覚えていない。

祖母とは一緒に住んでいなかったし

祖母が他界したのは、私が幼稚園の頃だったから。

いや、そんな理由ではない気がする。

気がするだけで、本当のところはよくわからない。

 

猫と祖母は、いつも一緒にお出かけしていた。

映画館にだってついて行った。

さすがに中には入れてもらえず、映画が終わるまで外で待っていたなんて話もよく聞いた。

 

祖母と猫は、風貌がなんだか似ていた。

祖母が、そっと裏木戸を開けて外に出ると

猫もそっと裏木戸をくぐって外に出た。

 

私の家に遊びに来ては

『安珍清姫』の話や『粉川寺』の話をしてくれた祖母。

ちょっと怖い話を、小さな声で優しく淡々と語った祖母。

背中を丸めて座った姿が、本当の猫みたいだった。

しわのある細い手で、釣鐘せんべいを割ってくれたものだ。

猫がくつろぐ秋の昼下がり。

 

祖母が息を引きとる前日に、猫はふいと家を出て

そのまま帰ってこなかったそうだ。

 

「死ぬまで飼ってあげる」と言った祖母の言葉を

猫はちゃんと理解していたのだろう。

 

いつでもどこにでも、祖母について歩くトラ猫が

いまでも、私の中に生きていて

その幻の記憶が、私に一つの物語を聞かせてくれた。

『南海道中栗毛猫』というタイトルで

私のホームページに掲載している。

 

トラ猫の玄さんが語り手となって、如月ちゃんと旅をするお話。

「玄さん」は、今私と一緒に暮らしているトラ猫で

「如月ちゃん」は、私のペンネームだけど

この二人(一人と一匹か?)のイメージは

「祖母と猫」が多分に重なっている。

 

もしよろしければ、どうぞ

『南海道中栗毛猫』

2015/09/29

かみなり

9年前の今日

それまで経験したことのないほどの長時間にわたって

「雷」が鳴り続けた。

 

雷雲が、この地方の上空に停滞し続けたのだ。

 

その夜、私は子どもが通っている小学校の、PTAの会議のため

雨と雷の中、家を出た。

 

運動会が近いこともあり、運動会の運営、その他PTAの決め事を

その日の内に確認、了承しなければならないということだった。

 

会議の途中、雷はますますひどくなり

近場で、あちこちに落ちている様子。

 

学校の電気も、ブチっと消えた。停電だった。

一瞬、あたりは文字通り真っ暗になり

耳がシューっと空気が抜けたように静かになった。

会議室は、集まった保護者の声でざわついたが

耳の奥のほう、頭の芯は、静寂そのものだった。

普段気にもならない蛍光灯の音が消えたせいだ。

 

教頭が、懐中電灯を持ってきて、そのまま会議は続行。

集まっているのは、ほとんどが母親だから

みんな内心、家で待っている子どもたちのことで気が気でなかっただろう。

私もその一人。

 

ようやく会議が終わり、懐中電灯の明かりを頼りに車に乗り込んだ。

エンジンの音と、一斉に点く自動車のライトが心強かった。

 

20台くらいはあっただろうか・・・

順番に校門を出て、それぞれが家路に向かった。

街頭も消えている。

信号機も消えている。

町の灯りがすべて消えて、真っ暗な中

雷だけが光っていた。

 

停電は、そう長くは続かなかったが

雷は、明け方まで続いた。

 

朝のニュースで、秋篠宮に男児が誕生したということを知った。

 

近所のお年寄りたちは、80ウン年生きてきたけど

あんなに長い間雷が鳴り続けたのは、生まれて初めてだったと

口々に言っていた。

 

今日も、先ほどから雷が鳴っている。

さすがに、あの夜ほどの停滞はないだろうと、思っている。

 

人間が作り出し、日々当たり前のように利用している電気と

この、自然現象の「雷」が持つ電気との違いについて

本質的なところを、知りたいと思う。

太陽の代替品としての「電気」ではない、雷の「電気」とは

何ぞや?

 

あの晩も、今日も

雷は、そんな問題提起を

強烈な音と光で、私に投げかけている。

2015/09/06

「網走だよ」

「健康法を説きながら、自らは長生きしなかった人というのは信用できない」

こんな感じの文章を読んだことがある。

実名を出して、「○○さんは本物だけど、××さんは短命だったから、その健康法は正しくない。」

そういう意味合いのことが書かれてあった。

 

私は、ちょっと首を傾げた。

そうかな?・・・

なにか、「健康」という言葉の意味が、私の考える健康とはどこか違うなあと

その時感じた。

 

それを書いた人も、まさか、ただ長命であれば良いと言っているわけではないというのはわかる。

だけど、「本当の健康」は必ず「長命」になるはずだ・・・みたいなニュアンスが感じられて

それに反論する気は全く起きないけれど、私とは違う感覚の人なのだなあと思った。

 

たとえば、

野口春哉さんとか小林正観さんは、60代で他界されたので

(「健康法を説いた」とは言えないかもしれないけれど)

人が健康に生きるということ、幸せに生きるということを自ら実践しながらも

長生きはしていない。

お二人とも、前もってご自分の死期を知っていたようだし、

私は、このお二人はとても健康に生きた方たちだと思っている。

 

まあ、そんなことを書きたかったわけではなくて

本当は、私の祖父の話を書こうと思ってたのに、

いざ書き始めるとこんな話の流れになってしまった。

 

前置き(とも言えない)が随分長くなってしまったが、

ここから、私の母方の祖父の話をしようと思う。

 

祖父は、全国を旅する流浪の易者だった。

一度、北海道は網走から手紙が来て、これはまた寒いところに行ってるなと思ったものだが

網走からの帰りの道中で面白いことがあったのだと、ずっと後に祖父が話してくれた。

 

汽車に乗っていると、ある駅で数人の、見るからにヤクザな男達がドヤドヤと乗り込んできた。

周りの乗客はさっと静かになり、関わりにならぬように俯いたりしたが

男たちは、弁当をよこせだの、席を開けろだの、すき放題に振る舞い始めた。

自分達は、今ムショを出てきたばかりなのだとも、大声で言ったりした。

一番威勢のよさそうな男が、一人で座っている祖父の前にどっかと座り

また言った。今、ムショ帰りなのだと。

祖父は「そうか・・・」とだけ答え、そのまま普通に座っていたら

相手は激昂して、お前はどこからきたのかと、ののしるように怒鳴り散らした。

祖父は、にんまりして、一言「網走だよ。」

 

それからの男達の様子は手のひらを返したように、へいこらして

「兄さん、兄さん」と呼ぶようになったらしい。

 

冗談好きの祖父のことだから、男達の勝手な誤解をいいことに、腹の中では笑いながら、そのまま『網走番外地』を演じ続けたのかもしれない。いや、わざと誤解するように仕向けたのは間違いないのだが。

 

祖父は、自由気ままに旅をして、心も自由な人だった。

最期は、自分で台所に立ち、水を飲んでから息を引き取った。

死に水を自分で飲むのは、ちょっと普通は難しいだろう(笑)。

 

易者であり、占いを生業としていた祖父だが、家族、親戚、近所の人を決して占わなかった。

私など、「占って~」と手を広げると

「クソつかみ」と言って、その手を丸められたものだ。

 

祖父のことを思い出すのは楽しい。

死に顔さえ、私にはなつかわしく、愛しく思い出される。

 

この記事の前置きの部分、前置きにさえなっていない、祖父の話とは関係のない部分を

削除して書き直そうかとも考えたが

なんとなく、私の考える「健康」というものが

祖父の話の中に潜んでいるような気もして

このまま、アップしようと思う。

2015/08/24